「ゲス不倫にアナーキズム、ヘンなガイジン、ヌード、日銀。事始め人の退場劇」1923(大正12)年 1924(大正13)年【連載:死の百年史1921-2020】第3回(宝泉薫)
連載:死の百年史1921-2020 (作家・宝泉薫)
■落語界にも苦言を呈した、ヘンなガイジン第1号
快楽亭ブラック(享年64)
震災直後には、初代快楽亭ブラックも鬼籍に入った。いわゆる「ヘンなガイジン」の草分けで、6歳のとき、英字新聞の記者だった父とともに英国から来日。日本語を覚え「青い目の落語家」として活躍した。明治中期の全盛期には『読売新聞』の連載で、
「落語もこのぶんでゆくと、だんだん衰微しやす。(略)今の真打ちが亡くなりやしたら、あとを継ぐ者はありやすか。名前ははばかって申しやせんが、ただ今、先代のあとを継いでる者で、そいに劣らぬようやってる者がありやすか」
と、苦言を呈したこともある。落語のほかに、手品や催眠術を披露したり、歌舞伎に出演したり、推理小説を執筆したりと、マルチタレントぶりも示した。また、英国のレコード会社と組んで、自身も含めた当時の芸人たちの芸を蓄音機のレコードに吹き込むという貴重な仕事もしている。
ただ、晩年は不遇だった。芸のユニークさが飽きられ、49歳のときには亜ヒ酸を飲んでの自殺未遂も。その後は養子とした弟子(日本人)の助けも借りながら、ひっそりと暮らした。震災が起きたときにはもう寝たきりだったが、駆けつけた弟子の嫁(フランス人)たちを「バタバタするな」とたしなめたという。
それから17日後、脳卒中で死去。西洋化の世を象徴するような64年の人生を終えた。